デイサン・リッツェインハインが現役引退:2001年の高校時代からの「3強」最後の砦“リッツ”が37歳でキャリアを終える

by David Monti(Race Results Weekly)

リッツェインハイン、アラン・ウェブ、ライアン・ホールがアメリカの中長距離界を変え、3人ともに全米記録を更新した。

 

全米高校界の天才と呼ばれた男 – デイサン・リッツェインハインはその後、2回の世界大会でのメダル、3回のオリンピック出場、5回の全米王者、そしてマラソンでの2:07台を達成した選手となった。

彼は16年間のプロランナーとしての競技生活の終わりとなる現役引退を決めた。アメリカ・ミシガン州のロックフォードで育ち、大学時代はコロラド大で競技をしていた現在37歳の彼は、競技生活においてそれなりの目標をすべて達成し、現役選手から退く時期がやってきたと決断した。

「必ずしも、自分の全盛期だった25歳の時に引退することもなかったしね」

と、リッツェインハインは、10マイルのハードな練習を終えた直後にミシガン州の自宅から電話でそう語った。彼はこう続けた。

「自分の競技生活の中でやっておきたかったこともあるけど、それでも自分のキャリアにとても満足している。 今思うと、それについては去年の1年間にたくさん考えたこと。前を向くというよりも、過去を振り返ることが多くて懐かしい気持ちになることがたくさんあった。だから、達成したいと思っていたことがもっと多くあったのかもね」

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2009年世界ハーフで銅メダルを獲得

リッツェインハインは10代の頃から注目され、1990年代後半にはアメリカ全土で有名な存在となった。彼は高校2年の時に1999年のフットロッカー・クロスカントリー高校選手権で優勝し、その翌年にはアラン・ウェブライアン・ホールを破って、フットロッカーの2連覇を達成した。リッツェインハインがウェブに20秒差をつけて圧勝したそのレースで、彼はトップランナーとしての未来を見据え始めた。

「高2の時には、最高の選手になることの意味を実感し始めていた」

彼はそのように当時を懐古する。

「その年は、自分が全く違う領域に入った気がしていた。 プロの選手について少し理解し始めたことを覚えている。 自分はその頃に王者になっていたが、アランとライアンは着実に力をつけ始めていた。彼らの走りはとても良くてエキサイティングだったけど、同時にプレッシャーも感じていた。でも、自分は優勝するという目標に向かって、ただただ目の前のことに集中していた。あの日は(大会連覇を達成した高3のフットロッカー)、すべてを賭けた1日だった。 もう20年も前のことだけど、その頃からそういうメンタリティがあったんだ」

彼は2001年の高校3年生の時には全米クロスカントリー選手権の20歳以下の部で2位に入って、世界クロスカントリー選手権の全米代表となった。ベルギーのオステンドの足元の悪いコースで開催された自身初の世界大会で、リッツェインハインの才能が輝いた。

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スーパースターとして頭角を現し始めていた、エチオピアのケネニサ・ベケレが優勝したジュニアの部でリッツェインハインは銅メダルを獲得した。

リッツェインハインは2001年の秋にコロラド大に入学し、双子のトーレス兄弟と共に強力なクロスカントリーを形成した。この3人は、コロラド大ヘッドコーチのマーク・ウェットモア指導のもとで、ビッグ12やマウンテン・リージョンといった地区大会だけでなく、全米学生のタイトル獲得においてもチームを先導した。

その中で、リッツェインハインは2003年の全米学生クロスカントリー選手権で、スタンフォード大のライアン・ホールとの接戦をわずか1.3秒差で勝ち取ったが、これはリッツェインハインにとって特別な勝利だった。

「高校から大学に入ってすぐの頃は、成績は安定していた」

と、リッツェインハインは当時を振り返った。

「でも、2003年の全米学生クロカンの前年は故障で1年間丸々棒に振った。この経験を経て、自分が偉大なランナーになるための運命のようなものを感じた。2003年に復帰して全然練習が積めていなかったけど、コーチのマーク・ウェットモアと相談して、万全はない状態でレースに臨むことになった。それに、ライアンもヤル気に満ちていた。当時、自分には全く自信がなかったんだ」

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「でも、それは最初からわかっていたことだったし、レースではできるだけ耐えて、仕掛けて、自分を追い込んだ。このレースは今まで走ったレースの中で、最も苦しいレースの1つだったと思う」

コロラド大の選手として競技を続け、リッツェインハインは2004年のアテネ五輪全米選考会の10000mに出場して22位に終わったにもかかわらず、その種目で全米代表に選出された。彼はそれ以前にアテネ五輪の参加標準A記録の27:49.00を突破しているアメリカの5人の選手のうちの1人だった(彼は2004年4月の初10000mで27:38.50という当時の全米学生記録で走った)。

アテネ五輪全米選考会10000mの優勝者であるメブ・ケフレジギはマラソンでアテネ五輪に出場することを選択した(ケフレジギは本番で銀メダルを獲得)。また、4月に27:37.45をマークしていたボブ・ケネディは全米選考会で途中棄権してしまった。

そのようなことから、アテネ五輪10000mの全米代表にはアブディ・アブディラマンダン・ブラウン(アテネ五輪のマラソンにも出場)、リッツェインハインの3人が選出された。しかし、アテネ五輪でリッツェインハインは故障の影響が響き、途中棄権に終わってしまった。

「最初の五輪は、自滅してしまった悲惨な経験だった」

リッツェインハインは、彼の最初の五輪代表となった経験についてこう続けた。

「自分は参加標準記録を突破したけど、標準記録の突破者はそこまで多くなかった。ボブ・ケネディ、メブ、ダン・ブラウンとアブディが標準を切っていた。 メブは結局マラソンを走って、ボブ・ケネディは10000mで途中棄権したけど、自分は(失速していながらも全米選考会の)レースを完走しなければならないと思っていた」

リッツェインハインは22歳になったばかりの誕生日の翌日の2004年12月31日に、イタリアのボルツァーノで開催されたボークラシック10kmでプロランナーとしての初レースを走った。8周のレースで、リッツェインハインは残り2周でペースを上げ、ウクライナのセルゲイ・レビド(世界クロカン銀メダリスト)、イタリアのステファノ・バルディーニ(その年のアテネ五輪マラソンで優勝)に次ぐ3位でフィニッシュした。

リッツェインハインはアテネ五輪の直前にナイキとプロ契約し、ブラッド・ハドソンがコーチとなった。彼は翌年の2005年の全米クロスカントリー選手権と、全米10kmロード選手権で優勝し、ハドソンの指導のもとで2006年のニューヨークシティマラソンでマラソンデビューを果たした。彼がプロ3年目の始めにマラソン転向をしたことは当時話題となったが、2:14:01(前半1:05:35)の11位でレースを終え、最後の4マイルでの失速を「何とも言えない」と表現した。

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その1年後に開催された2008年北京五輪マラソン全米選考会(2007年11月開催)に向けてニューヨークに再び戻ってきたリッツェインハインは、2:11:07の自己新でライアン・ホールに次ぐ2位に入って北京五輪の全米代表に内定。翌年の北京五輪のマラソンでは9位に入り、そこからリッツェインハインはマラソンに専念するかに思われた。

しかし、トラックを中心にしていた他の長距離選手が力をつけていくのとは異なり、リッツェインハインはトラック、クロスカントリー、ロードレースというマラソンの距離以下の種目にまだ見切りをつけていなかった。

彼はブラッド・ハドソンコーチ指導のマラソントレーニングで培ったものを生かして、彼の全盛期といえる2009年のトラックシーズンを絶好調で迎えた(2009年6月からは彼のコーチはアルベルト・サラザールに変わった)。

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8月のベルリン世界選手権の10000mでは27:22.28の自己新で6位入賞を果たし、その11日後には5000mで12:56.27という当時の全米記録を更新。さらに、秋の世界ハーフマラソン選手権では1:00:00で銅メダルを獲得した(その時4位だったのがウィルソン・キプサング)。

他にもその年には、全米選手権の10000mと全米ハーフマラソン選手権でともに2位に入り、4月のロンドンマラソンでは10位だった。

「それらのレースが、いつも自分にモチベーションを与えてくれた」

と、リッツェインハインは話す。

「自分は常に目標を持っていたけど、もちろんそこには山あり谷ありだった。全米記録達成や、高校時代の世界クロカンでの銅メダル、世界ハーフでの銅メダルなどの栄光の瞬間があったし、それらのレースでは自分は“無敵”だと思っていた」

しかし、彼は実際には故障という多くの“敵”に悩まされた。

リッツェインハインは競技生活の中で多くの故障に苦しんだ(彼は40回以上のMRI検査を受けたと振り返っている)。そして、3回の手術を余儀なくされた。右アキレス腱の手術で2011年の大半を棒に振ったが、長いリハビリ期間を経ての2012年は彼にとって最も劇的な1年となった。

「あの1年はとんでもない年だったよ」

と、リッツェインハインは笑いながら話した。彼はこう続けた。

「でも、2011年はほとんど走ることができなかった1年だった。 アキレス腱と足の手術をそれぞれして、何ヶ月も走れないままだった。ロンドン五輪マラソン全米選考会(2012年1月)まではとても短い練習期間だった。大学時代の全米学生クロカンでなんとか優勝した時のように、短い期間でなんとか仕上げた」

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リッツェインハインは、ヒューストンで開催されたロンドン五輪マラソン全米選考会で4位となり、五輪の切符を逃して絶望のふちに落とされた。彼は2:09:55で走り終えたが、その記録は彼の自己新だっただけでなく、五輪マラソン全米選考会の落選者としては史上最速の記録だった。

「調子を整えるためにできる限りのことはやったけど、わずか8秒差で五輪代表が手中から離れていくのを見るしかなかったんだ」

リッツェインハインは嘆いた。

「自分だけ1人、取り残されたような気分だった」

現在は解散となっているナイキオレゴンプロジェクトに所属し、アルベルト・サラザールが指導していた当時のリッツェインハインは、6月のロンドン五輪全米選考会の10000mで雨が降る中、ロンドン五輪参加A標準の27:45.00を突破して3位に入り、自身3度目の五輪代表の切符を手にした。

そして、ロンドン五輪では当時のトレーニングパートナーで銀メダルを獲得したゲーレン・ラップに次ぐ(アメリカの選手として)13位でフィニッシュ。当時、物事は本当にうまく進んでいった。

「その頃は3年間、トラックレースから離れていたので代表になれるかどうか半信半疑だった」

と、リッツェンハイン話した。

「ロンドン五輪全米選考会は壮絶な1日だった。(そのレースまでに)自分は参加標準を突破していなかったけど、そのレースに出場していた選手の多くがその記録をクリアしていたからね」

彼はこう付け加えた。

「(だから)それは不可能なことだと思ったりもしたんだ 」

リッツェインハインはロンドン五輪の後、10月のシカゴマラソンに向けて準備を始めた。レースでは彼の旧友であり、高校時代のチームメイトでもあるジェイソン・ハートマンに先導されてリッツェインハインは9位でフィニッシュし、2:07:47という自己新を叩き出した。しかし、彼の現役生活でこれより速く走ったレースはなかった。

「マラソンでこれぐらいの記録を残したいと思っていたから(ロンドン五輪の後に)マラソンに戻ってくるという大きなモチベーションがあった」

と、リッツェインハインは話す。

「実は、その時は練習が順調に積めていて、本当に、本当に、本当に良い年だったと思える1年間だったし、それがシカゴで証明された。 完璧な気象条件に恵まれて、親友のジェイソン・ハートマンがずっと引っ張ってくれたし、あの長身の男の後ろで後半に備えていた。彼は3:00をちょっと切るペースで推移していて完全に“ハマっていた”ね。マラソンであんな風にすべてうまくまとめられたのは、自分にとって大成功のレースだった」

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リッツェインハインは2013年も高い競技レベルを維持し、モスクワ世界選手権の10000mで10位に入り、その年のシカゴでは2:09:45と安定感があった。しかし、翌年の2014年は故障でシーズンを棒に振り(彼は1回しかレースに出ていない)、その後の数年間で、2015年ボストン7位、2017年全米25kmロード選手権優勝、2018年ニューヨークシティハーフ2位など幾度と健闘したものの、リオ五輪の全米代表には手が届かなかった。

また、彼は足の別の故障で怪我で2018年のニューヨークシティマラソンに出られず、2019年はハーフで1:01:24だったが、マラソンはボストンでの19位という結果しか残せなかった。今年の2月末にアトランタで開催された東京五輪マラソン全米選考会では1:05:43で中間地点を通過したが、完走することができなかった。

そこで、彼は引退を真剣に考え始めた。

「足の故障に悩まされていた」

と、リッツェインハインは説明する。

東京五輪マラソン全米選考会の1週間前は、本番で完走できるかどうかわからなかった」

彼の競技生活を振り返ってみると、リッツェインハインの最大の長所は粘り強さだった。彼は速いペースを好んで、誰かが勝ちにきていると感じたら、それをさせまいとペースを上げた。

「トラックの10000mや5000mは自分にとってはエキサイティングな種目だった」

と、リッツェインハインは説明する。

「ハーフマラソンでもギリギリのペースを見極めて、最後まで粘ることができたし、そんな展開が得意だった。練習でも、そうやってチャレンジするのが好きだったし、自分はそれで成功できた。自分はいつも我慢し続けてきた」

彼はそう、付け加えた。

リッツェインハインは、スポンサーやコーチ、理学療法士、チームメイト、そして家族から受けたサポートに感謝をしていた。 彼は2017年7月、自分が幼い頃から尊敬していたコーチのケビン・ハンソンキース・ハンソンからの誘いを受け入れ、ハンソンズ・ブルックス・オリジナル・ディスタンス・プロジェクトに所属するまで、2017年の短い期間を除いてスポンサーをまだ持っていた。

彼はプロランナーとしてのほとんどの期間を、代理人のダン・リロットにサポートしてもらっていた(彼が担当する選手たちは彼を“スペシャルエージェントのダン”と呼んでいた、とリッツェインハインは語っている)。

「デイサンはスポーツに対する純粋な愛を持った良い人だ 」

と、テキストメッセージを介してコーチのケビン・ハンソンは綴った。

しかし、リッツェインハインは、妻のカリンのサポートが彼の成功の最も重要な要素であると述べた。 彼には娘のアディソン(12歳)と息子のジュード(9歳)という2人の子供がいたが、夫が走り込んでいるときに妻のカリンは子供の世話や家事に徹した。

「妻のカリンのように、私の全盛期と、故障で苦しんでいた時の浮き沈みを知っている人は他にいないだろう」

リッツェインハイン続けてこう話す。

「誰もが全米記録や五輪代表を夢見ているが、自分が達成してきたことは取るに足らない正直いうと、私たちの子供たちを育てるうえで、妻には家庭のことを任せっきりだった。自分が故障で練習できない時も、自分が1ヶ月間自宅をあけた時も彼女に家庭のことを任せていた。(競技に対して)家族一丸となって取り組んできたけど、彼女は自分の全てなんだ」

リッツェインハインは今後も常にランナーであり続け、今でも時々ハードに走ることもあるという。 彼はすでにマラソン選手のパーカー・スティンソン(25km全米最高記録保持者:1:13:48を含む数人のプロランナーの指導をしている。

「これで“完全に終わり”というわけではないんだ。私が知っていることはランニングしかない。ランニングというスポーツは私の情熱であり、愛なんだ」

彼は付け加える。

「これからもこのスポーツに恩返しをしていきたいと思っているし、コーチングは私の情熱なんだ。私は文章を書くことや、人と話すこと、人にアドバイスを送ることが好きなんだ。それが私のDNAだし、私はこれからも走り続ける。それがないとやっていけないんだ」

【リッツェインハインの自己記録と主な実績】

自己記録
3000m:7:39.03
2マイル:8:11.74(全米歴代9位)
5000m:12:56.27(全米歴代3位)※当時全米記録
10000m:27:22.28(全米歴代9位)
ハーフ:1:00:00(全米歴代4位)
マラソン:2:07:47(全米歴代4位)

全米タイトル
クロスカントリー:2005、2008、2010年
10km(ロード):2005年
25km:2017年

五輪の成績
2004年アテネ五輪:10000m途中棄権
2008年北京五輪:マラソン9位(2:11:59)
2012年ロンドン五輪:10000m13位(27:45.89)

世界大会の成績
2001年世界クロスカントリー:ジュニア7.7km銅メダル(25:46)
2005年世界クロスカントリー:シニア12km62位(38:46)
2007年大阪世界選手権:10000m9位(28:28.59)
2009年ベルリン世界選手権:10000m6位入賞(27:22.28)
2009年世界ハーフマラソン:銅メダル(1:00:00)
2013年モスクワ世界選手権:10000m10位(27:37.90)

 

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