非アフリカ系ランナー初の10000m26分台から10年:クリス・ソリンスキーがいかにして“華麗なるペース走”で史上最高の番狂わせを起こしたのか

by Jonathan Gault

2010年のペイトン・ジョーダン・カージナルス招待に出場したクリス・ソリンスキーは、自身初の10000mのレースだったが、レース前はゲーレン・ラップの全米記録更新への挑戦の影に隠れていた。しかし、ソリンスキーはそこで非アフリカ系ランナーで初めてとなる10000mサブ27:00の壁を破り、ラップとのライバル対決を制した。この番狂わせから10年が経った今でも、このレースの魅力が衰えることはない。

 

オリンピック金メダル。多くの選手がそれを夢見ているが、本当に達成できると信じている選手は一体どれくらいいるだろうか?

クリス・ソリンスキーは、スティーブンズポイントエリア高校に通っていた初めの頃から常にそう思っていた。それからの10年間で、彼はほとんどの時間において自分が正しい道を歩んでいると確信していた。

アメリカ・ウィスコンシン州出身の逞しい体つきの彼が高校3年の時、2002年のフットロッカー・クロスカントリー高校選手権の5kmを14:41で優勝したが、2位の選手につけた20秒差は大会史上最大の秒差での圧勝だった。その後ウィスコンシン大学に進学し、全米学生王者に5回輝き、22歳で大学を卒業したわずか数ヶ月後には、3000m7:36、5000mで13:12の自己新をマークした。

オリンピックの栄光を追いかけてその道を歩むとき、選手が示すことのできないことは“どんな選手としてファンに記憶されていくのか”ということを選手自身が選択することはできない、ということである。

「偉大な選手たちはオリンピックの代表になったり、メダルを獲得したり、それが何であれ理想を持っている」

ソリンスキーの大学時代とプロ時代のどちらも指導したジェリー ・ シューマッカー(現バウワーマン・トラッククラブ・ヘッドコーチ)はそのように話す。

「でも、実際はそんなにうまくいかないけどね」

(世界大会やその他のレースではなく)ペイトン・ジョーダン招待のレースが、競技生活の決定的な瞬間となることを夢にも思うランナーはいない。たとえ、それが間違いなくペイトン・ジョーダン招待の歴史の中で最もエキサイティングなレースであったとしても。

「レース後、このレースで記憶に残る選手になりたくない、と言ったことを覚えている」

と、クリス・ソリンスキーは話す。

「でも、結局私はこのレースでファンの脳裏に焼き付けられた」

“あの”レースから10年が経った。そこのあなたも知っていることだろう。

“26分59秒”

“史上最速の白人選手”と、チームメイトのエヴァン・ジェイガーが当時話していたように、ソリンスキーが体格も国籍も肌の色も違うランナーの可能性を再定義した、“あの”レースから10年が経った。

ソリンスキーがライバルのゲーレン・ラップにショックを与え、アメリカの長距離界で最も成功している2人のコーチの間に決して癒えることのない傷を引き裂いてから10年。

そう、スタンフォード大学で開催された2010年ペイトン・ジョーダン・カージナルス招待の21レース目、“キム・マクドナルド記念”男子10000mでソリンスキーが26:59の全米記録(当時)を更新し、非アフリカ系ランナー初の10000m26分台ランナーになった瞬間は特別だった。

この記事は、レースのわずか11日前にソリンスキーがツイッターで “華麗なるペース走”と表現していた、伝説のレースについて書いたものである。

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失敗から学んだこと

ソリンスキーにとって、室内競技と屋外競技で5度の全米学生王者に輝いていたが、こと全米学生クロスカントリー選手権においては、3年時の2005年にチーム優勝をしているものの、2003、2004、2006年とチームは総合2位に終わり苦渋を舐めている(その時のウィスコンシン大学マディソン校のヘッドコーチがジェリー・シューマッカーだった)。

彼にとっての大学時代の4年間は、ことチーム競技においても責任感に駆られることが多かったが、2007年の春に大学を卒業したことで、彼に新たな自由が生まれた。ソリンスキーがナイキのプロランナーとなってからは、チームの成績が彼にとって重要でなくなったからだ。

キャンプ・ランドール・スタジアムのすぐそばにあるオークランド・アベニューの家は、歴代のウィスコンシン大マディソン校の長距離選手が世代を超えて住み着いた家だった(最近の学生では全米学生選手権1500m優勝のオリバー・ホアや、全米学生王者に4度輝いているモーガン・マクドナルドが住んでいた)。

その家にまだ住んでいたソリンスキーは、大学卒業を機に自由を手にしたことで新しいライフスタイルを試す機会を得た。

「外出の機会が増えたので、彼女を作りたいと思っていた」

と、ソリンスキーは当時を懐古する。

ソリンスキーは週に2、3日は夜に、ハウスパーティーやバーに行き、そこで運が良ければ… と思っていた。彼はお酒の場でも無類の強さを誇っていたので、夜遊びがトレーニングに影響することはなかったが、当時の彼はプロのアスリートとしての“プロ精神”に欠けていた。

身長185cmと、広い肩幅と樽のような胸板を持つソリンスキーは、長距離選手というよりかは十種競技の選手であるかのような見た目であった。しかし、彼が10000mで27:00の壁を破った時、それまでにその壁を超えてきた選手の中では最も長身かつ、体重が重かった。それまでのサブ27:00を達成した選手で最も体重の重い長距離選手よりも“9kg”も。

彼は自分の体格を常に欠点としてではなく、神からの贈り物として捉えていた。しかし、ソリンスキーが飲酒によって増量して体重が77kgを超えた時のことを、コーチのシューマッカーは思い出す。当時、ソリンスキーはそれに対する批判を振り払っていた。

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それから、月日が経ち2008年の北京五輪全米選考会の5000mでソリンスキーは、ラスト200mで先頭に立っていたが、その後5位に破れて北京五輪の切符を逃してしまった。レース後、ソリンスキーはヘイワードフィールド(オレゴン大の競技場)の一角に退き、苦い経験をしたことを泣きながら話していた。

「ラスト200mで失速して北京五輪出場を逃してしまったのは、いつものレースよりも4、5kgも体重が重かったことが影響した。仕方なかった」

と、ソリンスキーは話した。

翌年の2009年、ソリンスキーは一歩前進して、ベルリン世界選手権の5000m決勝に進出した。その前の全米選手権ではラスト1周を53秒90で走っていたので、ベルリン世界選手権でのメダル獲得を確信していたソリンスキーは、12人の先頭集団の1人としてラスト1周を迎えた。

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しかし、ラスト1周のラップは61秒台にとどまり、12位でフィニッシュ。彼にとって2年連続でシーズン最大のレースで屈辱を味わったのだ(動画)。

ソリンスキーは一体、何がいけなかったのかを考えた。

ベルリン世界選手権5000mで金メダルを獲得したケネニサ・ベケレ(ラスト1周53秒21)と同じように、5000mのラスト1周でを53秒で走れることはわかっていた。しかし、全米選手権ではラスト1周までは62秒よりペースが速くなることがなかったのに対して、ベケレは61.7、60.8とラップを刻んでからラストを53秒台でまとめた。

ソリンスキーはラスト1周に入る前にすでに消耗しきっていたのだ。ソリンスキーにはメダルをとれるだけのスピードがあったが、彼はそれをどう生かすかを考えなければならなかった。

「それが2010年の目標だった。ラストまでに誰にも振り落とされないように強くなることだ

と、ソリンスキーは話した。

***

着実に力を付ける

ソリンスキーのバーでの夜遊びは、2008年の北京五輪全米選考会に悪影響をもたらしたが、“彼女作り”に成功したという点においては彼にとっては重要なことだった。ソリンスキーと同じくウィスコンシン州の陸上選手(棒高跳)だったエイミー・ダーリンは、2009年秋に彼と結婚する予定だった。

ソリンスキーの25歳の誕生日である2009年12月5日に結婚したことが、最終的にソリンスキーがブレイクした2010年のトラックシーズンに向けて好影響をもたらした。

2009年の初め頃、シューマッカーと彼が指導していた選手たちは(ソリンスキーを含む)、オレゴンプロジェクトとして知られていたナイキのプロジェクトのために、ウィスコンシン州のマディソンからオレゴン州のポートランドに引っ越していた。

しかし、ソリンスキーのトレーニングパートナーである元ウィスコンシン大マディソン校のサイモン・バイルティム・ネルソンマット・テゲンカンプなどは、2009年の秋にオレゴン州で練習していたが、ソリンスキーは間近に迫った結婚式の準備のために一時的にアメリカ中西部に引っ越し、婚約者のエイミーの故郷であるウィスコンシン州とイリノイ州との間を行き来していた。

ソリンスキーのチームメイトとの分離は、彼にとって有益であることが証明された。彼にとって“焦り”ほどモチベーションを高めるものはなく、トレーニング計画のアップデートがある度に、ソリンスキーはますます、チームメイトがポートランドの地で手にしている成果を逃しているのではないか、という焦りを持つようになった。

「こっちはみんな本当に調子が良いんだ。ここに来たら、もっと頑張らないといけないよ」

と、シューマッカーは言った。

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ソリンスキー(中央)の2009年の結婚式の様子:ジェイガー(左から2番目)、ソリンスキー(中央)、バイル(右から3番目)、テゲンカンプ(右から2番目)

ソリンスキーは走行距離を増やして、狂ったように練習に取り組んだが、ポートランドに戻ってから最初の練習で振り落とされるリスクを冒すつもりではなかった。彼のチームメイトが結婚式のためにマディソンに到着する頃には、練習で振り落とされることを心配していたのは彼らの方だった。

「彼はとても調子が良さそうに見えたし、当時のクリス(ソリンスキー)を見た中で1番痩せていた」

と、ジェイガーは話した。

彼は2008年に77kg前後で推移していた体重を4kgほど減量させていた。

その理由の一部は、彼の激しい練習のための摂生にもあったが、ソリンスキーは常にハードな練習を行っていた。減量の1番の理由は?

ソリンスキーは両親と食料の買い出しを分担していたが、彼は24歳の当時、買い物が好きではなかった。そして、ソリンスキーが食事をするときは、そのほとんどが狩猟のシーズンに父親と一緒に捕獲した赤身の※鹿肉(ジビエ)を食べていたのだ。

(※)鹿肉は牛肉と比較してカロリーが約3分の1、脂質は約7分の1であるが、タンパク質は約1.5倍。究極のダイエットフードである。

ソリンスキーはいつもゆっくりなペースで走っていたが、1月にポートランドに戻ってきたときには新たなレベルに達していた。彼の哲学は“調子が良ければ速く走ろう”というシンプルなものだった。そして、彼は2010年のシーズンでは常に調子が良かった。

「3:25〜3:30/kmペースよりも速くなってきてから、彼についていって地獄をみた」

と、ジェイガーは話す。

「それは容赦ないもので、来る日も来る日も彼はヤル気に満ちていた」

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ソリンスキーの結婚式の準備をするバイル(左)とジェイガー(右)

ソリンスキーはチームメイトとコミュニケーションしながら、リラックスしたペースで練習を終える前に、彼はしばしば1人でペースを上げて調子を上げていった。

「クリスと一緒にすべての練習をこなすのは不可能だった」

と、トレーニングパートナーのバイルは言う。

「我々は可能性に満ちたトレーニンググループだったけど、毎日クリスと一緒にトレーニングをすることはできないと思っていた。彼が誰かと一緒にポイント練習を終えたことはなかったと思う。もし彼と一緒にポイント練習を終えたとしても(コーチの)ジェリーが追加の練習を彼に与えていた。彼のような練習をする人には出会ったことがなかった」

練習強度を高めたソリンスキーは、2010年の最初の4ヶ月間、同じトレーニンググループのマラソン選手のバイルとネルソンと一緒に練習を行い、週平均176km(週最大210km超)のトレーニングを行った。トラックシーズンが近づくにつれ、3人ともモンスターのような状態に仕上がっていた。

1600mのインターバル(リカバリー90秒)は※4:20台 → 4:10台で行われた(ネルソンは5本、バイルは6本、ソリンスキーは7本を消化)。

(※)1600m4:16で2:40/km(5000m13:20ペース)、4:25で2:45/km(5000m13:45ペース)

また、16kmのペース走では48:00を切り、ある練習では600mのインターバルのリカバリーがわずか100mで行われた。ソリンスキーとネルソンは、その年の世界クロスカントリー選手権で12位に健闘したばかりのバイルを練習で振り落とすなど、仕上がっていた。

「600mのインターバル(リカバリー100m)の疾走区間の合計はだいたい5000mで13:01ぐらいだった」

と、ソリンスキーは言う。

「あの練習は“ヤバかったね”、そんな感じだった」

ソリンスキーは5000mを専門にしていたが、コーチのシューマッカーは彼がどれだけ力をつけたかどうかを測るために、5月1日のペイトン・ジョーダン招待の10000mにネルソン、ベイルとともに出場することに決めた。

これはソリンスキーにとって初の10000mだった。

「彼の何が際立っていたのだろうか」

シューマッカーはこう話す。

「これまで一緒にやってきた選手たちにも当てはまるけど、 “練習でどれだけ速く走れるか”ではなくて“準備がどれだけできているかどうか”。でも、彼の動きを見ていると、彼ならいとも簡単に成し遂げてしまうんじゃないかと思った」

***

ユージンかスタンフォードか?

アルベルト・サラザールは競技生活の中で2回、ヘイワード・フィールドで全米記録を更新するチャンスがあった。しかし、それは2回とも失敗に終わった。

1982年4月10日、かの有名な10000mでのヘンリー・ロノ(中長距離4種目元世界記録保持者との死闘において27:30.0を記録したサラザールは、そのレースでロノに敗れ、さらにはクレイグ・ヴァージンの全米記録を“あと1秒”というところで逃してしまった。

その2ヶ月後には5000mで、サラザールはかつてのオレゴン大のチームメイトだったマット・セントロウィッツ(リオ五輪1500m金メダリストの父)に敗れた。セントロウィッツは13:12.91をマークしてマーティ・リコーリの全米記録を更新したが、サラザールはリコーリの全米記録まであと0.66秒の13:15.72に終わった。

そのようなこともあり、2010年にラップがプロとして最初のシーズンを開始させるにあたって、サラザールは自身ができなかったこと、つまりヘイワード・フィールドでラップに10000mの全米記録に挑戦させることを決意した。

計画が始まった。

ラップの全米記録挑戦へ向けて、2010年4月30日の金曜日に行われる“オレゴンリレー”に照準を定めた。サラザールは、2001年にメブ・ケフレジギが樹立した27:13.98の当時の全米記録を破るために2人の選手にペーサーを依頼した。ケニアのマシュー・キソリオと※サイモン・ディラングである。

(※)日大卒のサイモンではない

ナイキはレースの様子を映像に収めるべく、撮影クルーを雇って、ラップの顔と“GO GALEN”と大きく書かれたポスターを作った。オレゴン大時代に北京五輪に出場し、全米学生王者に6回輝いたラップにとって、このレースは全米長距離界の新たな幕開けを予感させていた。

サラザールはソリンスキーやベイル、ネルソンがその週末に10000mのレース(ペイトンジョーダン招待)に出場することを知っていたので、シューマッカーに“ユージン(オレゴンリレー)でラップと一緒に大会を盛り上げてほしい”と伝えた。

この時点では、まだサラザールとシューマッカーの関係は良好であったのだ。

2007年6月に致命的な心臓発作で14分間心臓が止まったという経験を持つサラザールは、いくつかの深刻な問題について考え始めた。その中には、まだ完成されていなかった10代の頃から指導を始めたスターの教え子であるラップが最悪の事態に陥ったらどうするのか、という深刻な疑問も含まれていた。

そこで2008年、サラザールはオレゴンプロジェクトで彼の後継者となる予定だった人材を雇った。人は彼のことを「全米最高の長距離コーチ」と呼んだ。その人物がジェリー・シューマッカーだった。

「私は将来のことを見据えている」

と、サラザールはユージーン・レジスター・ガード紙に語った。

「… 私は家族のために生命保険に入っているし、ジェリーがポートランドに来たことで、私にもしものことがあったとしてもゲーレンはなんとかなるだろう」

サラザールとシューマッカーは2010年の春、名目上は同じチームの一員だった。彼らの選手たちは全員、オレゴン・トラッククラブのグリーンのユニフォームを着てレースに出場して、ポートランドのいわゆる“ナイキハウス”で一緒に暮らしていた選手もいた。

彼らは友好的ではあったが、そこには明らかな“隔たり”があった。サラザールは自分がみている選手だけを指導をして、シューマッカーも自分がみている選手だけに指導をした。そして、その2つのトレーニンググループが一緒に働きあうことはなかった。

「友好的ではあったけど、我々は自分たちのグループの練習に集中していた」

と、ソリンスキーは話した。

サラザールが“ユージンでの10000mのレースに参加しないか?”と、誘ったときのシューマッカーの反応は「ノー」というシンプルなものだった。

シューマッカーにとって、ユージンでレースをすることには意味がなかった。ペイトン・ジョーダン招待が行われるスタンフォードの気象条件はいつも良かったからだ。4月のユージン?それ以外の何者でもない。

シューマッカーの計画は固まっていたので、サラザールはそれに対して柔軟に対応した。オレゴンリレー前日の木曜日、サラザールは金曜日のユージンは風が強くて寒すぎるため、ラップを出場させないと判断した。

サラザールは不測の事態に備えてペイトン・ジョーダン招待とのダブルエントリーをしていたが、パロ・アルト(スタンフォード大)の花粉レベルがラップのパフォーマンスに影響を与えるのではないかと心配していた。

そこでサラザールは、オレゴンリレーの10000mを土曜日に延期するように要請するか、土曜日にヘイワードフィールド(ユージン)で新たに独立したレースを新設するかの2つのプランを持っていた。

サラザールはシューマッカーにその旨を伝え、シューマッカーは彼の選手にもそれを伝えた。最終的には、ソリンスキーはもうそれで十分だと思っていた。

「私はジェリーを見て、“ジェリー、自分は気にしないよ”、と言ったことを覚えてる」

と、ソリンスキーは話す。

彼(ラップ)がここで走ろうが、あそこで走ろうが、我々の計画にはあまり関係ないからね」

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ラップは最終的にスタンフォードで全米記録に挑戦することとなった

金曜日に「レースの時間までに花粉は問題ない」と断言したスタンフォードの研究者に相談した後、サラザールは“決断”を発表した。

ラップは土曜日の夜にスタンフォードでレースをすることになった。

ラップが全米記録を更新すれば、レースの翌日の朝にパロアルトのナイキの新しい店舗で、彼はメディアに囲まれることになるだろう。

ナイキはこの展望をすぐに拡散させた。

ペイトン・ジョーダン招待にラップが出場することによって、そのレースのペーサーは3人になった。サラザールに依頼されたキソリオとディラング、そしてシューマッカーに依頼されたケニアのダニエル・サレルである。

サラザールと彼のアシスタントであるオレゴンプロジェクトのハイパフォーマンスディレクターであるダレン・トレジャーは、サレルがラップに勝ってしまうのではないか、と心配していたので、トレジャーはレース前にシューマッカーに対して“サレルにレースの完走は許されない”と伝えるように言っていた。

しかし、サレルとシューマッカーの間での取り決めの1つとして、サレルがコモンウェルスゲームズの標準記録をマークするために、ペーサーとしての役目を終えた後にレースを完走してもよい、というものがあった。

シューマッカーは、特にラップ専用のペーサーが2人用意されていたことを考えると、サレルに“完走するな”とは言わない、と腹を括っていた。

このトレジャーの要請は、2つのことを明確にした。第1に、ラップがレースに勝利することがサラザールにとってかなり、とてつもなく重要であったこと。そして第2に、サラザールはソリンスキーやシューマッカーの選手たち(バイル、ネルソン)が、ラップに勝てるとは思っていなかったということである。

ラップは、10000mで2009年に全米選手権で優勝し、ベルリン世界選手権で8位入賞を果たしていたことで明らかにこのレースの優勝候補だった。しかし、ソリンスキーは、それまでのトラックレースではラップに対して6勝2敗の対戦成績を誇っていた。とはいえ、その対戦成績は10000m未満のレースのものであった。

「(ソリンスキーが)ラップに勝てると思っていただろうか?」

シューマッカーは言う。

「確かに、勝てると思っていたけど、実際にやってみないとわからなかった… 彼がティム・ネルソンやサイモン・バイルにさえ勝てるかどうかもわからなかった」

シューマッカーのトレーニンググループの関係者の間では、ソリンスキーが27:10〜27:59ぐらいでは走れるのではないかとささやかれてた。レース前日、ソリンスキーは友人や家族にレースを見るように、とメールを送った。

「メールに書いたことは、“この青年(ラップ)が全米記録更新を目指している”ということだった」

ソリンスキーはそう話す。

「それまでに彼に負けたのは1回か2回だけ。私自身もトレーニングパートナーもとても良い状態。そうはいっても、うまくいかないことのほうが多いが、もしうまくいったら自分が明日、全米記録保持者になっているかもしれない」

一般の陸上ファンのレース予想はそれほど楽観的ではなかったし、優勝候補にソリンスキーの名前はほとんどなかった。あるファンは、ソリンスキーが彼のトレーニングパートナーのペーサーをするために出場するのではと考えていた。また別のファンは、ソリンスキーが28:00を切るだけでも十分に凄いと予想していた。

何か特別なレースとなる最初の予兆は、レース前夜にやってきた。

「私の競技生活の中でのハイライトを振り返ってみると、よく走れたレースの前夜は食欲がすごかった」

と、ソリンスキーは言う。

ソリンスキーは、パロアルトにあるイタリア料理の「イル・フォルナイオ」のニョッキから食べ始めたが、その量は侮れないほどに少なかった。そこでソリンスキーは、大学時代から行きつけの「コールド・ストーン・クリーマリー」を訪れ、いつもの定番メニューを1番大きいサイズで注文した(バニラアイスクリームにピーナッツバタークッキー、ホワイトチョコレートチップ、キャラメルがかかったもの)。

それでもまだ彼にはスイッチが入っていなかった。その後「リトル・シーザーズ」のミディアムサイズのピザの大部分を食べて、バイルと“割り勘”をした後、ソリンスキーは満足の様子でベッドに入った。

***

レース当日

レースに向けての戦略を練っていたシューマッカーは、自然体でアグレッシブなソリンスキーに、無駄な動きをしないように慎重に走るように促した。理想のレースプランは、ソリンスキーがペーサーにできるだけ長く引っ張ってもらって、ラスト100mまでスパートを待つことだった。ソリンスキーはレースの早い段階で動いた方がいいと思っていたが、もしソリンスキーの調子が良いのなら、他の誰かがラスト100mまで彼と一緒に走ることができるだろうか。

最終的に彼らは互いの妥協点を見出した。

「私は彼に言った。もし、スパートをかけられると思う瞬間があれば、そこからフィニッシュまで持ちこたえてほしい」

と、シューマッカーは話した。

レースの気象条件は理想のものだった。午後に吹いていた風は日没とともにおさまり、夜の21時50分にスタートした男子10000mの頃には気温は14℃あたりまで下がって最適なコンディションだった。

ソリンスキーはいつもレース前には嫌な気分になるが、その後は信じられないほどの快走を見せていた。そのため、彼が楽々とウォーミングアップを終えたとき、彼は不安を感じていた。

「それまでのレースでは、レース前に気分が良かった時はあまりうまくいかなったからだ」

と、ソリンスキーは言う。

ソリンスキーが言うには、当初彼のペーサーとして依頼されたサレルは27:20台のペースでシューマッカーの選手たち(ソリンスキー、バイル、ネルソン)を引っ張ることを命じられていた。しかし、ラップのペーサーたちは全米記録(27:13)の更新を目標にしていたので、それぞれ別々のグループを作ることはあまり意味をなさなかった。

「私がした指示はこうだった。 “聞いてくれ、ここからが本題だ。 ラップには彼のペーサーがいる。彼らのレースを邪魔しないでほしい”」

と、シューマッカーは言った。

「あくまで我々のレースプランをやって欲しいんだ。ソリンスキーはペーサーとゲーレンの後ろにつくことになるだろう。そのペースが速いと感じたら、我々のペーサー(サレル)にそれを伝えればいい。そのために彼はここにいるんだ。“ヘイ、ちょっとペースが速いからペースを少し落としてみよう”こんな感じでね」

ソリンスキーがスタートラインに向かう準備をしているとき、彼の代理人であるトム・ラトクリフ(バイルとネルソンの代理人でもある)はサレルを探していた。ラトクリフは、すでに緊迫していた状況を悪化させたくなかったので、サレルにはシンプルに指示を出した。

「レースを完走してもいいが、ラップを混乱させないように。ラップには近づくな」

1つ問題があった。サレルはアメリカでの初レースだったが、ゲーレン・ラップを知らなかったのだ。

「この“ムズング”は誰だ?」

と、白人(Mzungu)を意味するスワヒリ語を使ってラトクリフ に尋ねた。

ラトクリフは緑色のオレゴントラッククラブのユニフォームを着た長身の金髪の選手を指差した。これでレースの準備が整った。

レースの前半は何事もなく過ぎていった。ディラングは4000m地点まで先頭を引っ張って役目を終え、その後キソリオはラップ、リバティ大学のサム・チェランガ、サレル、ソリンスキー、バイルの5人を先頭で引っ張って全米記録を上回るペースで5000mを13:34で通過した。

ソリンスキーはまだ気分良く走っていたが、通過タイムを聞いて自分を疑い、困惑した。

「あぁ!」

彼は自問自答していた。

「これはペースが速すぎる。この先どうなるかがわからない」

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ソリンスキーはレースの途中で脇腹の痙攣を起こしていたが、最終的に痙攣は収まった

そのパニックは、ソリンスキーがレース中に脇腹を痙攣させたときに激しくなっていた。突然、彼は呼吸が2倍キツくなったと感じ始めた。それでも、彼は走り続けるために、ボブ・ケネディ(5000m元全米記録保持者)から受けたアドバイスを思い出した。

ケネディが1996年の5000mで非アフリカ系ランナー初の12分台で走ったレース中に、痛みを感じ始めたとき、彼はその次の200mを走ることに全てを集中するように自分に言い聞かせた。それを乗り切ったら次の200mに集中して、そして次の200mに集中する。それをラスト200mまで繰り返すというものだった。

ケネディの5000m12分台から14年後、ソリンスキーは別の金字塔に向かっていたが、彼は苦しくなり始めた時にケネディからのアドバイスを試した。ラップは、ペースが落ち始めていたことに焦りを感じて、6400m地点で先頭のキソリオの前に出た。そこでソリンスキーは力強く粘っていた。

「この200mに集中」

7000m地点を過ぎたあたりから、トップ集団がばらけ始めた。

「次の200mに集中」

7600m地点では、先頭集団の後方で粘っていたバイルが、ついに離れてしまい、これで先頭集団はラップ、サレル、チェランガ、ソリンスキーの4人に絞られた。

「あと200mに集中」

いよいよレースが面白くなってきた。痙攣に苦しみながらもソリンスキーは全米記録を上回るペースで20周の周回を重ねていたが、その時には痙攣は治っていた。8000mの手前でソリンスキーがサレルの前に出た時に、レースの実況をしていたFloTrackのライアン・フェントンは、ソリンスキーの調子が良いことを目の当たりにしていた。

「ソリンスキーを見てください!」

と、フェントンは、ソニーのハンディカムでレースを撮影しながら実況していた。

「このペースは彼にとってそんなに速いようには見えない… 一体、いつになったらソリンスキーの魂に全米記録のチャンスがやってくるのだろうか?」

ソリンスキーはその時、全米記録のことは考えていなかった。しかし、彼がその時考えていたことはただ1つ。レースで勝利することだけだった。シューマッカーはトラックの300m地点でレースを観ていたが、ソリンスキーがペーサーのサレルの前に出た時、ソリンスキーはコーチに視線を向けてスパートの合図を出した。しかし、その時シューマッカーは首を横に振った。

「彼は素晴らしい動きを見せていたが、レースはあと1マイルも残っていた」

と、シューマッカーは話す。

「それは10000mのレースの長い道のりであり、その最後の1マイルで多くのドラマが起きる可能性がある」

ソリンスキーの前方では、ラップに疲れが見え始めていた。8400〜8800mの1周を66.9(27:52ペース)まで先頭のラップがペースを落としたことで、先頭集団が団子状態となった。ラスト1300mで先頭集団がシューマッカーの横を通り過ぎた時、ソリンスキーはラップの斜め後ろでスパートのタイミングをうかがっていた。

しかし、まだそこで動きはなかった。

ラスト900mを切ったところで、ソリンスキーがラップの隣に出てきて、コーチのシューマッカーに“スパートの許可を出してくれ”と懇願した。シューマッカーはもう我慢できずに、そこで彼にゴーサインを出した。そして、ソリンスキーはすぐに先頭に躍り出た。

「彼はもう我慢できない様子だったし、スパートさせてみて、そこからどうなるかということに賭けてみた」

と、シューマッカーは話す。

我慢の連続から解放されたソリンスキーは、すぐにラップに5mの差をつけ、サレルが2番手に上がった。しかし、そこから200m後(ラスト600m)でソリンスキーが本格的なスパートをかけ始めた。これはシューマッカーにとって想定外のことだった。

「なんとかゴールまで持ちこたえてほしい」

ソリンスキーは3年前、ヘイワード・フィールドで開催された“オレゴン招待”のレースのことが脳裏によぎった。そのレースでは終盤で先頭に立ったが、ラスト100mでラップに差し切られていた。ソリンスキーは過去の失敗を繰り返したくなかった。

しかし、ラップは最後までソリンスキーに追いつくことはなかった。ソリンスキーはラスト600mで再びペースを上げ、ラスト1周の鐘がなる頃には2番手との差を30mにまで広げていた。4200〜4600mのラップ(60.1)を聞いて、ソリンスキーは興奮した。

ソリンスキーはフィニッシュ予想記録がどれぐらいであるかや、全米記録を更新するためにラスト1周を70秒で走ればよいということをわかっていなかった。しかし、彼はフィニッシュラインまであと400mに迫った段階で1マイル4:00ペース(2:30/km)で走っていた… それでも、彼は苦しい表情を見せなかった。

「4200〜4600mのラップが60秒のはずがない」

と、ソリンスキーは思っていた。

「もし本当に60秒で走っているのなら、ラスト1周をどれぐらいで走れるだろうか」

ラスト200m地点でソリンスキーは“26:31”というタイムを耳にした。その数字が何を意味しているのかを彼が理解できたのはそこから50m後のことだった。

「マジか!26分台が出せるかもしれない!」

ソリンスキーが加速して、観客が彼に拍手をしている時、実況のフェントンはFloTrackの実況で同じことを考えていた。大記録が出る。とてつもなく速い。

「26分台が出るかもしれない。いけ、クリス!」

ソリンスキーがゴールに向かって最後の力を振り絞った時、フェントンは叫んだ。

「ついにやったぞ!ハンパない!クリス・ソリンスキー、26分59秒!」

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信じられない様子でフィニッシュタイマーを見るソリンスキー

公式記録は26:59.60で、ラスト800mは1:56.2(60.1 – 56.1)。ソリンスキーの後ろでは、信じられないような好記録が続出していた。ソリンスキーと同じく初の10000mだったペーサーのサレルが27:07、チェランガは27:08の全米学生新。ラップは以前の全米記録よりも速く走ったが27:10の4位に終わった。そして、その後方ではバイルが27:23のカナダ新(当時)、ネルソンは27:31の自己新だった。

しかし、ソリンスキーがこの26:59を出した瞬間から観客は爆発的な盛り上がりを見せていた。このレースのために自腹でポートランドから応援にかけつけていたチームメイトのジェイガーは、レース直後にソリンスキーの周りに群がった選手に混じるために、インフィールドを横切ってダッシュをしていた。

ほとんどの観客が、ゲーレン・ラップに全米記録を更新することに期待していた夜は、クリス・ソリンスキーによる“非アフリカ系ランナー初の26分台”という結末に終わった。ファンたちはソリンスキーにサインを求めた。自分の帽子や上半身裸の胸に、または“GO GALEN”と印刷されたポスターにまでも。

(この番狂わせによって)レース会場は普段では有り得ない光景をみせていた。

このレースはアメリカ東部時間の深夜1時過ぎに終わったが、衝撃は瞬く間に世界のランニングシーンに広まった。

「高校生からメールが来て、“コーチ、ダンスパーティから帰ってきてから自宅で夜通し13回もこのレースを友達と見ました”という内容のメールだった」

と、シューマッカーは話した。

「そのインパクトの大きさは、あらゆるレベルのランナーの胸に響いた。それはとてもすごいことだった」

このレースから9年7ヶ月後の2019年12月に行われたレッツランの読者のアンケートでは、ソリンスキーの26:59のレースは、五輪の全米選考会や全米学生選手権の決勝のレースを上回り、この10年間でトップ4のうちの1レースとしてランクインした。

この歴史的な26:59.60の記録、苦境からの逆転劇、ラップとのライバル対決など、このレースの魅力を語るには十分すぎるが、ソリンスキーはフェントンの実況をこのレースの魅力して見逃すべきではないと考えている。

当時28歳の陸上オタクだったフェントンの実況は、すべての長距離ファンがこのレースのラスト2周で目の当たりにした衝撃、興奮、驚きを代弁してくれた。

このレースをオンラインの生中継で見ていたファンは、フェントンの実況を聞くことができなかったが、全米の長距離ファンが翌朝にFloTrackにアップロードされたレースのハイライトを見たとき、そこで胸を熱くさせる実況していたのがフェントンだった。

「レースハイライトでその実況を最初に聞いた時、体が震えたね」

と、ソリンスキーは話す。

「彼を見かける度に言っているけど“僕らは永遠に繋がっているようなものだね”と」。

***

レース後の余韻

ソリンスキーによると、コーチのシューマッカーと抱き合ったのは、彼の競技生活ではこのレースだけだったそうだ。

10年後、この事実を知ったシューマッカーは大爆笑。

「こんな風に堅苦しくて冷酷だけど、良い仕事をして選手の背中を押すタイプのコーチだと自分は思われているからね」

と、シューマッカーは言う。

「でも、実際はもっと温かいけどね… 他にもレース後に選手と抱き合っている写真もあることだし!自分はそんなに理不尽なコーチじゃないよ」

しかし、ソリンスキーとシューマッカーとの間での意見は一致していた。ソリンスキーは自分が5000mの選手であるということを強く意識していた。

「2人ともすぐに、この快走が今後の5000mにどう意味をもたらすのかを考えた」

と、ソリンスキーは言った。

ソリンスキーの10000mでの快走は、実際に5000mでも好影響をもたらした。アメリカ人が過去に5000mで12:57よりも速く走ったのは6回だけしかない。そのうちの半分は、この10000mの1ヶ月後から77日間でソリンスキーが3回マークしたものである。

彼は6月4日にオスロで12:56.66、8月6日にストックホルムで12:55.53、8月19日にチューリッヒで12:56.56で5000mを走った。そして、ソリンスキーは10年経った今でも、5000mにおいてアメリカ生まれの史上最速のランナーであり続けている。

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トレーニングパートナーのバイルとレース直後に抱き合うソリンスキー。2人ともに自国の記録を更新した

机上の上ではこの活躍は異常なほどに思える。彼が躍進する前の3年間でソリンスキーは13:12、13:18、13:18のシーズンベストでしか走れていなかった。しかし、シューマッカーは、ソリンスキーが2010年にいきなり飛躍したという考えは誤解を招くと話す。

「私は練習において、2007年に13:15で走った男を見たし、2008年に13:10で走った男を見たし、2009年に13:10台前半で走った男を見た。そして、その男は2010年に12:55で走った」

と、シューマッカーは話す。

「レースではその力を発揮できていなかったが、私がこれまでに見てきたことは、つまりそういうことだった」

しかし、ソリンスキーと世代の近いアラン・ウェブ(1マイル全米記録保持者)やライアン・ホール(ハーフマラソン全米記録保持者)がそうであったように、ソリンスキーを偉大な選手にしたのは、トレーニングで自分の体を極限まで追い込む能力であった。

しかし、最終的にはその能力が彼を破滅の道へと導いた。

ソリンスキーは、2011年の全米選手権5000m決勝のラスト1600mを3:58.60で走ったときに、2009年ベルリン世界選手権銀メダリストのバーナード・ラガトに僅差で敗れた(ラガトが13:23.06、ソリンスキーが13:23.65、3位のラップが13:25.52)。しかし、ソリンスキーは26歳にしてこのレースで、さらに調子が上がっていたと考えていた。

しかし、26歳でのこのレースがソリンスキーの競技生活においては最後の快走となってしまった。その後、ソリンスキーが5000mで13:30よりも速く走ったのは1回だけで、13:23よりも速く走ったことは1回もなかった。

オリンピックの金メダル獲得に目がくらんでしまったソリンスキーは、体の悲鳴を無視してまでも練習強度をどんどん上げていった。

2011年8月、大邱世界選手権に向けてボルダーで高地合宿をしていた矢先、ソリンスキーは愛犬の世話中につまづいてしまい、ハムストリングスの腱から骨盤にかけて怪我をしてしまった。ソリンスキーは、彼の競技生活最大の怪我について愛犬ではなく、自分自身を責めた。

「自分が悪い。ハムストリングに爆弾を抱えた状態になってしまった。階段で滑っていなければ、おそらく大邱世界選手権の予選のスタートラインに立っていただろう」

ソリンスキーは痛めた腱の手術に踏み切った。皮肉なことに、その手術はラップがブリュッセルでソリンスキーの10000mの全米記録を破った日に行われた。ソリンスキーは2012年のトラックシーズンを棒に振った。

彼が2013年に復帰したときにはかつての動きではなく、マラソン転向に失敗した後、2016年に31歳で引退を決めた。今日に至るまで、ソリンスキーは彼の左ハムストリングに違和感を持っているという。

ソリンスキーが競技生活の初期から描いていた、五輪金メダルの夢は叶わなかった(五輪の出場権を得ることすらもできなかった)。しかし、現在35歳でフロリダ大学長距離チームのアシスタントコーチ(FloTrack動画)としてのキャリアの3年目を迎えたソリンスキーは、過去にこだわるのではなく、自分の競技生活で学んだ教訓を指導に生かすことを選んだ。

「今、フロリダ大学の選手たちに言っていることは、物事がうまくいっていれば、あまり大きな変化は必要ないということ」

と、ソリンスキーは言う。

「今やっていることを続けていくしかない… 私はコーチとしての自分の仕事が大好きで、その生活を変えることはできない。自身の経験によって短い競技生活を終えたことが、時々指導に生かされていると感じる」

***

ソリンスキーの26:59は、アメリカのスポーツに大きな影響を与えた。世界中のトップレベルの長距離選手の中には、あらゆる体型の選手が存在するということを、若い世代のアスリートたちに証明したのである。

また、サラザールの所属するオレゴンプロジェクトと、シューマッカーが率いるバウワーマン・トラッククラブとの間で、2010年代のアメリカの中長距離シーンを印象付けるライバル関係にも火をつけた。

サラザールと、彼の後継者となるはずだったシューマッカーとの間のライバル関係は避けられなかったのかもしれない。アメリカの長距離界のトップクラスの選手を指導する2人の優秀なコーチが、ビーバートンの同じトレーニング施設(ナイキ本社のトラックなど)を共有することを余儀なくされれば、緊張した関係が続くことは容易に想像できる。

しかし、2010年のペイトン・ジョーダン招待で、その緊張の糸が切れてしまった。このレースはもともとラップが全米記録を更新するという晴れ舞台として考えられていたがで、それをソリンスキーが台無しにしてしまったからだ。

サラザールは、自分が指導する選手(ラップ)の自己新記録を含む目の前の結果を受け入れるのではなく、嫉妬心が強いサラザールがシューマッカーに裏切られた、と感じたのである。サラザールは、もしソリンスキーがラップに勝てるだけの調子であったのなら、シューマッカーは事前にそれを知らせる義務があると考えていた。

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ソリンスキーとラップは、2010年の室内シーズンにすでに2回、1マイルと3000mのレースで接戦を演じていた。そこではどちらもソリンスキーが勝っていたにもかかわらず。

また、サラザールがシューマッカーが指導する選手たちにユージンでのラップとのレースを依頼した経緯があったにも関わらず、最終的にはサラザールが折れて、最後の最後にラップがパロアルトで走ることになった、という事実にもかかわらず。

「私の記憶では、ジェリー(シューマッカー)はクリス(ソリンスキー)がゲーレンに勝てる見込みがあることを知っておきながら、それをアルベルトに話さなかったことで、アルベルトは“騙されていたんだ”と感じてしまった」

ソリンスキーは続けてこう話す。

「ジェリーの言い分としては、ゲーレンは全米記録更新を目標にしていて、10000mではすでに五輪代表にもなっていたけど、クリスは初めての10000mだった。つまり、ジェリーは本当にレースが始まるまで何が起こるかわからなかったんだ」

2010年のトラックシーズンに緊張感が高まったことで、2011年には2つのトレーニンググループは明らかに違った存在になっていた。2010年のトラックシーズンにラップがソリンスキーに4戦全敗した後、サラザールはオレゴンプロジェクト初の海外選手であるイギリスのモー・ファラーを迎え入れた(当時、ファラーは史上5人目の欧州選手権2冠を達成)。

シューマッカーが指導する選手たちがオレゴン・トラッククラブの緑のユニフォームを着続けていたのに対し、サラザールが指導する選手たちは、今では有名な翼のようなガイコツのロゴが入った黒いユニフォームでレースに臨むようになった。

サラザールは2011年のメールで、シューマッカーとアシスタントコーチのパスカル・ドバートに対して“我々の死すべき運命の敵”と書いていたことが、2014年のウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事で明らかになった。

2011年のシーズンで最も奇妙なエピソードは、6月のユージンDLでのこと。ラップとソリンスキーは、ソリンスキーが持つ全米記録更新を狙って10000mにエントリーした。しかし、ラップはいつも通りウォーミングアップを終えたが、レースの数分前に予告なしにいきなり棄権したのだ。

レース後、サラザールはラップが持病のアレルギーを懸念したため急遽欠場したと説明した。しかし、サラザールに近いある関係者によると、サラザールはレース会場に行く前にすでにラップの欠場を決めていたが、ラップにはレースに出場するかのようにウォーミングアップをさせた。それはおそらく、ソリンスキーを混乱させるためだったという(ラップはこの時に取材を拒否した)。

レースを途中棄権した直後のソリンスキーは、何かが怪しいと感じていた。

「多分、それは彼らの作戦だったに違いない」

ソリンスキーはレース直後に我々にそう語った。

「誰が真実を知っているんだ?」

2010年代にオレゴンプロジェクトとバウワーマン・トラッククラブの選手たちが選手権の表彰台を独占していたことだけでは、両グループのライバル関係は取りざたされることはあまりなかった。

しかし、2014年のアルバカーキでの全米室内選手権において、サラザールがシュマッカーの選手に怒鳴りつけたという出来事が、サラザールとシューマッカーを物理的に引き離す大きな要因となった。

2019年秋のサラザールの4年間の禁止処分で締めくくられたUSADAのオレゴンプロジェクトに対するアンチ・ドーピング違反疑惑の調査は、多くのバウワーマン・トラッククラブのメンバーが、オレゴンプロジェクトがルールを破ったのではないかと疑いを持っている中で、その考えを助長させた。

「私たちはいつも自分たちが善人で、彼らが悪人だと感じてきた」

と、バウワーマン・トラッククラブの女子3000mSCの選手であるコリーン・クィグリーは、2020年3月のClean Sport Collective Podcastでそう語っている。

***

クリス ・ ソリンスキーは、彼がウィスコンシン大マディソン校を卒業したときに、彼の頭の中では計画性のある競技生活をきちんと描けていなかった。

彼の長期目標は、4回のオリンピック:2008年北京五輪は5000m、2012年ロンドン五輪は5000mと10000m、2016年リオ五輪は10000m、2020年東京五輪はマラソン。そして、どこかで金メダルを獲得するというものだった。

その計画では2020年の東京五輪でマラソンを走った後、彼は引退していたことになるが、ソリンスキーなしで2021年に札幌で開催される予定の五輪のマラソンを考えると、彼はこの計画がこれ以上レールから外れてしまうということを想像できなかっただろう。

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結局、ソリンスキーは1度も五輪に出場することができなかったが、どれだけ多くの選手がソリンスキーのペイトン・ジョーダン招待のような“記憶に残るレース”のエピソードを持っているといえるのだろうか。

彼の26:59のレースは五輪や世界選手権の決勝のレースではなかったが、いくつかの理由でそれらのレースよりも特別なものとなった。モリー・ハドルは、2016年のリオ五輪の女子10000mで全米記録を更新したが、6位入賞にとどまり、優勝者から約1分後にフィニッシュした。

そのレース内容はソリンスキーの走りのようには共鳴しないだろう。ソリンスキーがレースで優勝したこと、そして※ラップにショックを与えたことが、このレースの魅力としての重要な部分である。

(※)レース直後にラップはソリンスキーと互いの健闘を讃え合わず、ソリンスキーに背を向けた

これを読んでいるあなたがもし、「華麗なるペース走」をアメリカの長距離界の歴史の中で最も有名なレースの1つとして数えることができるなら、あなたはかなりの陸上ファンだろう。

アスリートと大会との間には、どんなスポーツでも稀に見る“逸話”が存在する。それをクリス・ソリンスキーのレースを見ているそこの陸上ファンにも教えてあげよう。彼らは決して「どのレース?」と聞くことはないだろうから。

 

レッツラン記事

26:59! How Chris Solinsky Transformed a “Glorified Tempo” Into an All-Time Upset and Performance

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