2018年全米学生選手権がヘイワードフィールドで開幕。2021年ユージーン世界選手権前に改修されるヘイワードフィールド、99年の歴史に一旦幕を閉じる。
今年最後のTrackTown Tuesdayの一部として、1973~1998年までオレゴン大学陸上競技部のヘッドコーチを務めたビル・デリンジャーの功績を称えるため、多くの陸上ファンがヘイワードフィールドの西側グランドスタンドに集まった。彼のかつての教え子、ルーディー・チャパ、パット・タイソン、メアリー・スラニーも出席した。
御年84歳のデリンジャーは、昔に比べると大分丸くなり、イベント中よく笑っていた。多くは語らず、教え子たちに話を任せていた。それでも、このイベントはデリンジャーのおかげで素晴らしいものになり、頭からまだ離れない。特に印象に残ったことを記した。
(※レッツランの友人、チャーリー・シャッファーによると、デリンジャーは2000年に患った脳卒中により、話すことが困難になっているようだ。しかし、彼の心は変わらずシャープであった)
1964年東京オリンピックの男子5000mは素晴らしいレースだった
今では信じられないかもしれないが、54年前の東京オリンピックではアメリカ勢が5000mと10000mの上位を独占していた。ビリー・ミルズの10000mでの番狂わせの優勝は有名である。しかし、(大雨の中で行われた)5000mも同じぐらい素晴らしかった。昨晩のイベントでデリンジャーが紹介される前に、当時のレースのラスト2周の映像(下の映像はラスト3周の地点から)が流れた。まだ見たことがないのなら、見るべきであろう。
当時30歳のデリンジャーは大胆にも残り600m地点からペースを上げで先頭に立ち、レースを動かす。4年前のローマオリンピックでは決勝進出さえもできなかったデリンジャーが、先頭に立った。ラスト1周の鐘がなると、ローマオリンピック男子1500mで銀メダルを獲得したフランスのミシェル・ジャジが8人の集団から先頭に躍り出る。
バックストレッチでその差は広がり、残り200mで後方と約6m差をつけ、金メダルへ向けて駆け抜ける。しかし、ロバート・ボブ・シュールが残り200mで素晴らしい走りを見せる。当時のアンツーカトラックで、私の測定タイムだとラスト200mを26.8で走ったと思う。
13:48.8というゴールタイムが、今の基準からしたら平凡な記録に思えるが(当時の世界記録は13:35.0だった)、シュールのこのラストの走りは50年以上経った今見ても、素晴らしいラストスパートである。シュールのラストスパートは素晴らしいものであったが、ビル・デリンジャーもそんなに離れていたわけではない(彼のラスト200mは、私の測定だと27.4)。
残り150mで5番手、残り20mでメダルまであと少しのところまで追い上げた。そして、ジャジが失速しながらもメダル圏内でフィニッシュし、デリンジャーとほぼ同着で滑り込んだものの、デリンジャーはジャジを交わし銅メダルをもぎ取ることができた。順位は白黒ついたが、2人とも13:49.8という同タイム着差ありのフィニッシュだった。
(ラスト600mからペースを上げて先頭に立ちレースを動かした)デリンジャーが(ラスト200mでスパートし金メダルかと思われた)ジャジを追い抜いて、ギリギリのところで銅メダルを獲ったこのレースは、デーブ・ウォットルが1972年ミュンヘンオリンピック男子800mで金メダルを獲得した※レースを見ている気分になる。彼が優勝するとはわかっているものの、もう1度レースを見返してみると、彼がどうやって優勝を成し遂げたのか、今見ても新鮮な気持ちで興奮する。
男子5000mでアメリカ人選手がメダルを獲得するまで、そこから52年かかった(リオオリンピックでのポール・チェリモの銀メダル)ということを考えると、1964年東京オリンピック男子5000m決勝のレースは、アメリカ長距離界において最も素晴らしいレースの1つに数えられる。
デリンジャーは力のない選手にも寄り添った
1973年にオレゴン大学を卒業し、かつてスティーブ・プリフォンテーンと同部屋だったパット・タイソンは、もう少しでチームから退部させられるところだったという思い出話を話してくれた。

当時の陸上競技部のヘッドコーチだったビル・バウワーマンがデリンジャーにこのように言ったという。チームは“ハンバーガーズ”(バウワーマンの言葉で、力のない選手という意味)が多すぎるから、チームから去らせるべきだと。タイソンが最初のターゲットになってしまい、バウワーマンはタイソンのロッカーの名前部分をテープで消してしまったという。
当時アシスタントコーチだったデリンジャーが、バウワーマンにこう言ったとタイソンは振り返った。
「そうだな、ビル。ハンバーガー達を辞めさせなければな」
と。そう言って、デリンジャーはバウワーマンのお気に入りの選手だったマイク・マクレンドンのロッカーに同じことをしたという。デリンジャーはその日、アシスタントコーチの職をクビになりかけたが、結局は2人の選手ともチームに残ることができたという。タイソンは、人生における友を得たと、その時気づいたという。
「デリンジャーは自分の味方になってくれた。その思い出は一生忘れないよ」
と、タイソンは語った。
「今日まで僕たちは深い絆を持った友達だ。彼が諦めなったおかげでね」
とある選手スカウトの旅が1977年の全米学生クロスカントリー選手権総合優勝の土台となった
オレゴン大学はデリンジャーが指揮するもとで、1970年代に全米学生クロスカントリー選手権で4回の総合優勝のタイトルを獲得している。1977年、4回目の優勝の際には、チャパ、ドン・クラーリー、アルベルト・サラザール、マット・セントロウィッツ、ビル・マクチェスニーなど、有名な選手を多く抱えていた。これほど才能のある選手が揃った年はなかった。
チャパは当時、10000mの全米高校記録を持っており(28:32)、その後、3000mでも全米記録(7:37.7)とマラソンで2:11:13の記録を出した。他の4人の選手も、オリンピックで全米代表として活躍した(マクチェスニーは1980年のオリンピックでアメリカが参加をボイコットをしたため、全米代表には選ばれなかった)。
デリンジャーは、チームの中心となる選手を1976年1月にスカウトして集めた。(インディアナ州の)ハモンド高校に通っており、長らくシカゴマラソンのレースディレクターを務めるキャリー・ピンコウスキとチームメイトだったチャパのもとへ、スカウトに出掛けた。雪に埋もれたデリンジャーの車を引き上げるのにチャパは力を貸してくれ、その後デリンジャーはチャパを口説き落とした。
「ジョン・ウーデンがやって来て、UCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)のバスケットボール部に奨学金付きで誘ってくれるのと同じぐらい、すごいことだった」
と、チャパは当時を振り返った。
(※NBAのスター選手を数多く輩出したUCLAバスケットボール部の名コーチ。参考:アスリートに学ぶ、ビジネスでメンターを探すための5つの観点)
そして、アルベルト・サラザールを訪ねるために、はるばる東部マサチューセッツ州に移動。サラザールもチャパと同じくオレゴン大へと入学した。彼らは、1977年の全米学生クロスカントリー選手権で個人1位と3位に輝き、オレゴンダックス(オレゴン大スポーツチームの愛称)を総合優勝のへと導いた。
デリンジャーに関する映画を現在製作中
デリンジャーについてもっと知りたいという人は、制作会社エレベーション0mが彼の人生についての映画“ザ・マジシャン”を今年の後半に公開予定である。予告編は下からご覧頂ける。
レッツラン記事
http://www.letsrun.com/news/2018/06/eve-final-meet-hayward-field-tribute-magician-bill-dellinger/