メブの数々の栄光:レッツランが選ぶメブ・ケフレジギの忘れられない思い出のシーン

メブ・ケフレジギがマラソン選手としての最後のレースを走った先週、メブへの賛辞で溢れかえった。我々はニューヨークシティマラソンの展望記事と現地レポートの記事執筆で忙しく、また、レビューではシャレーン・フラナガンの衝撃的な優勝を大々的に取り上げたため、メブへ捧げる記事を十分に書けなかった。先週はメブに関する記事が多く出された。我々は、我々のやり方で、メブに関する記事を書いた。

LetsRun.comのスタッフである、共同設立者ロバート・ジョンソンウェルドン・ジョンソン、スタッフ1号のスティーブ・ソプラノ、そしてライターのジョナサン・ガルトが、アメリカ長距離界の英雄であるメブのお気に入りの思い出をそれぞれに語った。

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2014年ボストンマラソン優勝

ジョナサンスティーブ・プレフォンティンが、1番最初に知ったアメリカの長距離選手だった。アラン・ウェブは2番目に知った選手だ。そして、メブ・ケフレジギが3番目だ。2004年にさかのぼる。※1 私が13歳の時で、自分がその後ランナーになるなんて思ってもいなかった頃だ。スポーツは好きだったけど、その時に陸上選手で聞いたことがあるのは、とてつもない偉業を成し遂げた選手だけだった。※2 高校で1マイルを3:53で走ったとか、28年ぶりに※3 オリンピックのマラソンでメダルを獲得したアメリカ人選手とか。

(※1:ジョナサン・ガルトは現在20代半ば)

(※2:アラン・ウェブのこと)

(※3:メブ・ケフレジギのこと)

僕が成長していく過程で、ランナーではない一般の人の考えと同じように“マラソンでメダルを獲れるのはケニア人かエチオピア人しかいないだろう”と思っていた。だから、メブが2004年のアテネオリンピックで銀メダルを獲得した、と聞いたときは、生中継で見ていたわけじゃないから、これを知ったのも数か月後だったんだけど、凄く混乱したよ。“この変わった名前をしたアメリカ人選手が銀メダルだって?どうやって獲ったんだ?”

その10年後、僕がシラキュース(アメリカ東部)の高校を卒業してLetsRun.comでインターンを始める1か月前。学校に通っている時は月曜日に授業があって、ボストンマラソンも少ししか見ることができていなかった。でも、その日は2014年4月21日、ボストンマラソンを全部見ることができたんだ。本当に神に感謝している。だって、自分の人生において、これほど重要な意味を持つボストンマラソンはないからね。

メブの優勝以前でさえも、このボストンマラソンは、2001年からボストンあたりに住んでいた自分にとっては、ボストンをいう街が※ “2013年の爆破テロを乗り越えるパワーがあるんだ”と証明する、大事なイベントだった。僕がマラソンファンになる最後のチャンスでもあった。2014年のボストンマラソンは、僕がLetsRunで働き始める前に観た最後のメジャー大会で、報道関係者席で観戦することができなかった。アメリカ人選手に頑張って欲しかった。

(※ 現在では、それは“BOSTON STRONG”という標語になっている)

ただ、LetsRun.comのレース展望では“アメリカ人が優勝する可能性はほぼゼロに近い”と書かれていて、自分も“おおむねそうだろう”と思っていた。メブジョスファト・ボイトが8マイル(12.8km)で前に出たときも、あまり何とも思っていなかった。メブは自己記録が2:09台の選手だった。2:09台の選手が、ボストンマラソンの8マイル付近から、そのまま逃げ切れることはない。

しかし、差は大きくなるばかりだった。30秒、40秒、1分とね。30kmで彼のリードは1:21になっていた。2:09台の選手がボストンマラソンで優勝はできないとまだ考えてはいたが、彼はアテネオリンピックの銀メダリストでもあり、ニューヨークシティマラソンの王者(2009年)でもある選手が1分21秒の差を開けている。“メブは本当に勝つかもしれない”と思い始めた。

しかし、ウィルソン・チェベットがベーコン・ストリートを勢いよく走ってきて、1分、45秒、30秒と、メブとの差を徐々に詰めてきた。残り数マイル、チェベットメブと同じテレビ画面に収まるまでに近づいていた。メブは顔をゆがめていた。しかし、疲労していたのはチェベットも同じだった。なんせ彼は35 ~ 40kmを14:29で走ったきたのだから。

(※ 2014年ボストンマラソンの秘話(レッツランジャパン記事)でアメリカの長距離界の結束の強さがわかる)

チェベットは、これ以上差を詰めることができなかった。メブがボイルストンストリートを走ってくると、僕は歓喜と尊敬の気持ちでいっぱいになった。しかし、同時に困惑にも似た感情が湧いた。10年前に初めてメブの名前の聞いたときの記憶がよみがえった。“この変わった名前をしたアメリカ人選手がボストンマラソン優勝だって?一体どうやって?”

今日でさえも、この質問に対する答えには自信が持てないでいる。マラソン界のビッグネーム(レリサ・デシサデニス・キメット)を差し置いて、メブは素晴らしい走りをした。私が今、確信を持ってることは、メブ“ボストンマラソンで成し遂げてくれたことについて感謝の気持ちでいっぱいだ”ということ、そして“マラソンファンになれる最後のチャンスを与えてくれて感謝している”ということだ。

ロバートメブについての、忘れられない思い出をひとつだけに絞れるかわからない。ひとつだけに限定するのはフェアじゃないよ。メブのキャリアは、LetsRun.comが始まるもっと前に始まっている。若いころのメブは、僕の兄弟※ウェルドンのライバル選手だった。17年経った2017年の今でも、メブは高いレベルで選手として活躍している。どうしてそんなことが可能なのか?僕はメブより2歳しか違わないけど、今現在マラソンでサブ4も厳しい。それなのに、メブは3年前にボストンマラソンで優勝している。ウェルドンと自分について話すのはもう十分だろう。自分の話にならないようにしないと。

(※ ウェルドンの当時の10000mの自己記録は28:06.58)

メブの思い出をもうひとつだけ挙げるとするならば、ずっと覚えているのは2002年のニューヨークシティマラソンでメブがマラソンデビューをしたときのことだ。15年経った今となっては、テレビでレースを見ていたかどうかも忘れてしまったけど、1つだけ覚えていることがある。先頭集団が1番通りに差し掛かったときに、メブが仕掛けたんだ。アメリカ人選手が、メジャーなマラソンで、後半になってでも先頭集団についていることに驚いていた。メブは結局9位で、そのレース後に、

「もうマラソンは走りたくない」

と言ったんだ。でも、僕は思ったんだ。“結果だけではわからないけど、彼は良い走りをした、他のマラソンではもっと良い走りが出来る気がする”と。僕にとって、このレースはメブの思い出を語る上で1番のレースだ。メブのことを考える時に心に浮かぶのは、彼の “The Bridge”(架け橋)という言葉だ。アメリカの長距離界が全然良くなかった時代に、メブはアメリカのトップとしてやってきた。そして、アメリカの長距離界が上向きのときに、メブは引退する。その間、メブはずっと競技者だった。

1990年の後半、アメリカ長距離界はどん底の時期だった。1996年のアトランタオリンピック全米選考会の5000mで上位3位に入った選手は、13:28を切れない選手ばかりだった。2000年のシドニーオリンピックのときは、男子マラソン選考基準の2:14:00を切れた選手はった1人だけだった。2017年の今、アメリカは世界でも屈指の長距離の強豪国だ。その間ずっとこのフィールドにいたのがメブだ。

メブはアメリカの選手たちに“正しいことをやり続ければ何でも達成できる”ということを見せてくれた。信頼できるコーチがいて、負荷の高いトレーニングと負荷の低いトレーニングを組み合わせて、リハビリでのドリルでもクロストレーニングであっても一生懸命に取組むこと。もう1つのメブとの思い出は、2009年のニューヨークシティマラソンの数日前にメブと一緒にやったポッドキャストだね。当時、34歳のメブを、多くの人は“メブの全盛期は過ぎ去った”と思っていたと思う。

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2009年ニューヨークシティマラソン優勝

2008年は彼にとってスランプの1年で、北京オリンピック代表にもなれず、故障でほとんどレースにも出場できていなかった。多くの人はデイサン・リッツェンハインライアン・ホールに、アメリカ長距離界の次世代を担う選手として期待を寄せていた。レースが近づくにつれて、こんな風に思ったことを覚えているよ。“メブは素晴らしい1年を過ごしてきた。だから、誰かがメブに注目しなくては”と。その時は誰もその先のことを予想していなかったけど、彼は世間の誰もが注目するような結果を残した。

2014年のボストンマラソン優勝のことも、ずっと覚えているよ。メブが先頭に出たとき、プレスルームのジャーナリストの仲間が、“メブがいつ後ろの選手に追いつかれるか”という賭けをしたがったんだ。もう1度言うが、メブは優勝すると思われていなかった。僕自身も彼がこのまま走って優勝する可能性は※ゼロに近いだろうと思っていた。でも、彼は優勝したんだ。

(※メブはそのとき39歳を迎える少し前だった)

でも、メブについて1番に思い浮かぶのは彼の“品格のある行動”だね。正直に言うと、メブ自身よりもメブのチームの人々、メブの兄弟でエージェントでもあるハウィやコーチのボブ・ラーセンとの交流の方が多かった。1回でもマラソンのメジャー大会で優勝すると、プレスイベントではメブはいつも人の群れに囲まれていたからね。

だから、その人の群れに入って他の人と同じインタビューしか取れないのなら、彼のチームの一員であるハウィラーセンのところに行って話を聞いていたんだ。彼らはプレスの僕にもいろんな話をしてくれて、メブのマラソンへ向けたトレーニングについて“真実”を話してくれて、とても新鮮な感じがしていた。

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2003年全米選手権

ウェルドンメブに関して1つだけ思い出を挙げるのは不可能だ。メブは、この時代を代表する最高の人物である。自分も10000mの選手だったから、少し“ひいき”してしまうかもしれないけど、まだ語られていないとことから話を始めよう。2001年にスタンフォード大学でのレースで、メブが10000mの全米記録を破ったときの話をしよう。

このスタンフォードでのレースは、2001年当時、約15年破られていなかったマーク・ネナウのアメリカ記録を、※ボブ・ケネディが破るために開催されたようなレースだった。ケネディは、我々の世代では世界で戦える力を持った選手であったが、このアメリカ長距離界の空白の時代にアメリカは誰か新しいスターの誕生を必要としていたんだ。結果は、初めての高地トレーニングをしたばかりのメブが27:13.98の全米新記録(ケネディは途中棄権)で勝ったんだ。

(※ケネディは5000m12:58の選手)

アメリカ人が世界の強い選手たちと競い合うには、前の世代の記録を上回る必要がある。そしてついに、ネナウの記録を破る選手が現れた。2001年にメブが出した10000mの全米記録は、“メブがその後のキャリアでもっと大きなステージに進むだろう”ということを示していた。これは大事なレースで、注目の的はメブではなかった。メブは静かにこのレースへの準備をして、周りの期待を“良い意味で裏切った”のだ。このレースでメブには“高地トレーニングが適している”ということが証明されたのも、このレースが重要な意味を持つもう1つの理由である。 メブの兄弟であるハウィは、

LetsRun.comはいつもレース前展望でメブについて良い評価をしない」

と、いつも冗談半分で言う。ハウィは事前にメールをくれて、我々の意見には敬意を払うが、“メブにも注目した方がいい”と連絡をくれる。そして、ハウィの言う事はいつも正しい。2001年までさかのぼると、当時私(ウェルドン)もまだ競技をしていたから、そこまで多くのレース展望をしていた訳ではないので、そんなことはなかったけどメブはいつも期待を大きく上回る良い走りをしていたものだ。

2004年のアテネオリンピックのとき、メブはその前のオリンピック全米選考会では2位だったけど、本番のアテネオリンピックでは銀メダルを獲った。女子のディーナ・カスターがその1週間前にメダル獲っていたけど、アメリカ男子中長距離はどの種目においてもメダルを獲れていなかった。メブがいなかったら、アメリカ男子中長距離がメダルを獲るのは不可能だっただろう。もし、メブのキャリアがそこで終わっていたとしても、彼によってアメリカの中長距離のレベルは引き上げられていただろう。

しかし、彼のキャリアはその後13年もの間、ずっと変わらない高水準のレベルで持続されていた。2007年と2008年にメブのキャリアは終わりを迎えるかのように思われた。2007年の大阪世界選手権に向けてメブはマラソンで代表落ちを経験して、2008年は故障によってほとんどレースに出られず、トラック種目の全米代表にもなれなかった。2009年には調子を取り戻して、彼の走りも良くなった。

この2009年のニューヨークシティマラソンの前のポッドキャストでメブに関して触れられたことは本当に嬉しかったし、このとき大方の予想では、メブは優勝するとは思われておらず、75%の人は“ライアン・ホールの後ろでゴールするだろう”と予想していた。私の家庭の事情でこの年のニューヨークシティマラソンに参加、観戦することはできなかったのだが、携帯でレースの状況を追っていても、その状況をよく理解することができなかった。メブがニューヨークシティマラソンで優勝しようとしていたのだ。

これはメブの考えた“大きな舞台で人々の期待を裏切る”という台本通りの展開だったはずだから、あまり衝撃を受けるべきではなかったかもしれない。でも、これはあまりにもできすぎた筋書きだった。メブは1番大きな舞台で“虎視眈々と優勝を狙って人々の期待を大きく上回る”という台本通りに走ったのだ。そして、2012年のロンドンオリンピックでのマラソン4位入賞や、そして誰も予期していなかったであろう2014年のボストンマラソンでの優勝。

2017 NYC Marathon Weekend

26回目のマラソンが彼の引退レース ©2017 PhotoRun

先日のTCSニューヨークシティマラソンのときに、2000年のシドニーオリンピックの全米選考会で初めてメブに会ってから17年の月日が流れていたから、驚くことではなかったけど、またしても私は彼に驚いてしまった。1番通りを先頭集団で走っているメブを見たからだ。先頭集団に唯一残っていたアメリカ人だった。彼は42歳で、いまだに世界の強豪選手たちと堂々と競り合っていた。信じられないよ。自分のようにメブと2歳しか年齢が変わらない人にとっては、本当に本当に信じられないことだと思う。どうしたらそんなことできるのか、全くわからない。

今までは全然気づかなかったけど、メブの素晴らしいキャリアの歴史は、Let’sRun.comの歴史と重なっている。彼が初めてシドニーオリンピック全米選考会で勝った2000年には、Let’sRun.comにとって最初の年だった。メブアラン・ウェブライアン・ホール、他の多くの選手の活躍と引退を見てきた。LetsRun.comが存在している間、ずっと変わらないものといえば、メブの素晴らしさである。彼の引退は“1つの時代の終わり”を意味している。トラックでもロードでも、彼を惜しむ人でいっぱいだ。ロバートが言ったように、メブと彼のチームには“品格”があった。メブが引退して、寂しくなるよ。

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アテネオリンピックマラソン銀メダル

スティーブメブの思い出のレースだと2014年のボストンマラソンになるけど(アリゾナ州の)フラッグスタッフの自分の部屋のパソコンでこのレースを見ていた時の話をするよ。レースの終盤にパソコンが壊れて、血迷いながら再起動させようとしていた。“メブが後方の選手に追いつかれそうで、メブが先頭でゴールテープを切る瞬間を逃すんじゃないか”と、パニックになっていた。この話だけだとすぐに終わってしまうから、もう少しこの思い出を掘り下げたいと思う。

マラソンファンの僕にとって、メブは2つのレースにおいてのスター選手だった。メブは僕が初めてテレビで見たマラソンにも、初めて生で観戦したマラソンにも出場していた。偶然の一致ではないように思えるけど、この2つのレースには“8年間の開き”があることを考えると(最初のマラソンはスティーブが高校2年生のとき、2つ目は彼が大学を卒業してから1年経ったとき)それだけでメブのキャリアの長さが分かる。

メブがいつもいるということを当たり前と思いすぎていたから、これからのレースを見る時に“メブは今日はどんなレースをしてくれるんだ?”と考えることがなくなると思うと、不思議な感じがする。とにかく、僕が言った最初のマラソンというのは、2004年のアテネオリンピックのことだ。僕がランナーになってから初めてのオリンピックだったから、何の先入観もなしに観ていた。メブ・ケフレジギアラン・カルペッパー、ダン・ブラウンといった選手について誰も知らなかった。28年間もの間、男子のアメリカ人がマラソンでメダルを獲れていないことも知らなかった。

アテネオリンピックで、他の陸上種目を見逃していたから、マラソンだけは絶対に観たいと思っていた。生放送では観れなくて“ビデオ録画して絶対に後で観よう”と心に決めていた。自分はプロの陸上選手にはまだ詳しくなかったから、メブがもたらしてくれた“マラソンに対する第一印象は本当に大事だった”と、今振り返っても思うよ。初めてのマラソン観戦は、色んな見方ができる思う。もちろん全部が興奮するようなものでもないと思う。でも、僕のこの初マラソン観戦は、完全に興奮するような経験だった。

メブとイタリアのステファノ・バルディニが、レース序盤で大きくリードを奪ったブラジルのバンデルレイ・デ・リマとの差を詰めようとしている場面だった。デ・リマが※アイルランド人の司祭に妨害された時は、自分も怒って、メブが銀メダルと獲った時は興奮して、デ・リマも銅メダルを獲れた時は安心した。すごく良かったテレビでの初マラソン観戦の体験だった。アメリカ人選手が銀メダルを獲って、その応援をするのはすごくアドレナリンが出てきて、“このプロのランニングの世界をもっと知りたい”と思うようになった。

(※ オリンピックのマラソンの歴史に残るハプニングだった)

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ロンドンオリンピック全米マラソン代表選考会

2012年、ヒューストンでのロンドンオリンピックマラソン全米選考会まで話を進めよう。僕は大学を卒業した後だったので、社会人として初めてのレースをLet’sRun.comのスタッフとしてレースに出場した。またもやここでメブは大きな刺激を与えてくれた。ニューヨークシティマラソンの69日後に36歳のメブが走る、ということでいつものように彼に大きな期待はかけられていなかった。もう彼は、良いレースができないかもしれない。でも、彼はロンドンオリンピックの全米代表入りを果たしただけではなく、選考会のレースに勝ったんだ。レース後に、これまでどんな厳しい練習を積んできたかを僕に話してくれた。

「カメラも新聞記者もいない時に、厳しい練習をするんだ、それは、簡単なことじゃない。長距離選手としてたくさんの妨害がある。でも、やるべきことをただひたすら、一生懸命やるんだ。その機会が来たら、そのチャンスを掴む。自分自身を信じて、一生懸命に練習して、正しいことを行えば、神がいい結果を与えてくれる」

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ロンドンオリンピック全米マラソン代表選考会の優勝後 ©2012 PhotoRun

その日は、丸一日の仕事に疲れて、気持ちも高ぶっていて、疲労困憊で寝床に就いたのを覚えているよ。血が良くめぐるように、足元に4つ枕を置いて寝たんだ。次の朝起きて、メブのあの言葉が自分を鼓舞して、翌日のヒューストンハーフマラソンで※1分ほど自己記録を更新して10位に入ることができた。初めて生で観たマラソンの興奮をそのままに帰途について、将来ランナーとして、走るジャーナリストとしてやっていくヤル気に満ちあふれていた。その大部分はメブのおかげだと思っている。

(※LetsRunのスタッフでジャーナリストのスティーブはヒューストンハーフを67分台の自己新記録で走り10位に入った

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メブの家族と ©2017 LetsRun

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コーチのボブ・ラーセンと ©2004 PhotoRun

メブ・ケフレジギ:IAAF選手名鑑

 

レッツラン記事

http://www.letsrun.com/news/2017/11/meb-memories-letsrun-staff-share-favorite-personal-moments-amazing-career-meb-keflezighi/

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