(過去記事) ディエター・ホーゲンその1 – ドイツ人コーチによるケニアマジック

ディエター・ホーゲン (1953年ドイツ生まれ)がドイツの陸上長距離界においてもっとも成功を収めているコーチであることは確かだが、彼は現在 (2005年当時=12年前)ドイツ人ランナーを誰一人としてみていない。その代わりに、彼は国際舞台で活躍するランナーたち、とりわけケニア人選手に力を注いでいる。

ベストな方法で彼のアスリート達をサポートするために、ホーゲンとアメリカ人マネージャートム・ラドクリフは、2004年に新しいマネジメント会社をアメリカに立ち上げた。キンビア・アスレティックスである。トラックでの長距離、クロスカントリー、ロードレース、とりわけマラソンを中心にしているグループである。

(※キンビア・アスレティックは2004年に立ち上がった当初、ケニア人のロードの選手を中心にしていたが、その後ホーゲンがキンビア・アスレティックから独立した。ホーゲンのグループはチームホーゲンとして個別に活動しているので、現在のキンビア・アスレティックはアメリカのトラックの選手達を多くマネジメントしている。その主要がバウワーマン・トラック・クラブのメンバーである。)

エリートグループ・キムの記憶

現在 (2005年当時)、このグループには25人のランナーがいる。マラソンのデビュー戦から3戦連続で優勝し、2003年のシカゴマラソンでは非公式であるものの初マラソン世界最高記録をうち立てた、ケニア人のエヴァンズ・ルットティモシー・チェリガット (2004年のボストンマラソン優勝)、サミー・キプケテルアブラハム・チェビーなどが所属している。アブラハムは、先週行われた世界クロスカントリーでケネニサ・ベケレの2つ後ろの順位でゴールした選手である。

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ボブ・ケネディ (アメリカ)やエラーナ・マイヤー (南アフリカ)のように、フランス人ランナーのブアブダラ・ターリは最近、ディエター・ホーゲンをコーチとして招いた。マネジメントチームに参加しているランナーの中には、かつての長距離選手ゴッドフリー・キプロティッチがいる。彼は、1990年代半ばに、ケニア人としては初めてディエター・ホーゲンをコーチとして人物である。ジェーン・ハウワースもその一人で、後にキム・マクドナルドとともにトレーニングをした人物である。

長年のキム・マクドナルドのビジネスパートナーであったトム・ラドクリフとディエター・ホーゲンは、キンビア (KIMbia)という名前と綴りを二つの理由から決めた。キンビアとはスワヒリ語で“走る” (Running)という意味である。その名前は、ケニア人ランナーがこれまで陸上界に残してきたインパクトを表しており、そしてもう一つは、世界で最も尊敬されたマネージャーでありながら2001年に突然亡くなってしまったキム・マクドナルドへの畏敬の念が込められているのである。

「今日においても、キムの名前、そして彼の哲学はキンビア (KIMbia)に受け継がれている」

と、トム・ラドクリフは話した。

スタートからピッピヒの成功まで

ディエター・ホーゲンは25年以上も(2005年当時)コーチとして働いている。もとは旧ドイツのテューリンゲン州出身であり、1973年に東ドイツの陸上の強豪クラブである“ASKポツダム”に参加した。彼はそこでBernd Dießnerの指導を受けた。Bernd Dießnerは1978年のヨーロッパ選手権800mにおいて、セバスチャン・コーを破ったオラフ・ベイヤーを指導した人物である。

ディエター・ホーゲン自身は中長距離種目において将来が約束された選手であった。しかし、彼が22歳になるまでに、1975年に伴ったケガにより彼のキャリアは終わっていたのである。彼はその後、ポツダム大学で教育学を学んだ。程なくして、ASKポツダムが彼にコーチとしての仕事のオファーをしたのである。

「学校で教えるより、トップレベルのスポーツの方が面白かったので、13〜15歳のランナーのグループを受け持った」

数年後の1986年、ASKポツダムで大人向けの長距離とマラソンを受け持つことになる。そこで、彼はウタ・ピッピヒに出逢ったのである。ホーゲンはピッピヒを国際舞台へと導き、彼女は1989年の世界マラソンカップで3位入賞を果たした。

しかし、その数年前から個人的関係があった二人は東ドイツのシステムに難しさを感じていた。ホーゲンは、東ドイツでは彼女の本当のポテンシャルを発揮できないと感じていた。例えば、海外でのレース参加の希望はほぼ却下されていた。1989年にベルリンの壁が崩壊された後、彼とウタ・ピッピヒはシュトゥットガルトを離れ、ドイツの政治状況が変わった後に再びベルリンに戻ったのである。

マイナスの経験 – 全てをコミットすること

このマイナスの経験をしたにも関わらずホーゲンの過去に対する考えは、全てが悪いわけでがない。東ドイツでは、目標への絶対的なコミットメントが何を意味するのか、そしてハイレベルのスタンダードだけを受け入れることを学んだという。最近では、これらのことはいつでも学べる訳ではない。

ドイツとアメリカにおいては、選手達は100%よりはるかに低い力しか出さず、平均的パフォーマンスがいいと早い段階から判断されてしまう。世界クラスの選手になりないのなら、人が想像するよりもっと全力で専念してハードなトレーニングをしないとだめだとホーゲンは言う。

「プロらしく、用意周到にならないとダメだ。東ドイツにはたくさんのプロ選手がいて、成功に導いて来た。長距離界においてドーピングはなんの役にも立たない。しかし、残念な事に東ドイツに政治的にも個人的にも苦しめられた人物がいる。いい素質を台無しにしてしまった」

最大限のサポートをし、選手一人ひとりにあったトレーニングを出来るだけすることをいつも心掛けているという。彼の考えでは、世界レベルで結果を出すのに一番重要なことは、選手に日常生活の細かな部分においても、整えられた環境を与えてあげることだという。

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ピッピヒはホーゲンが指導した選手の中で最も卓越した選手である。彼女はベルリンマラソンとボストンマラソンそれぞれで3勝している。

加えて、マラソン(2:21:45)とハーフマラソン(67:58)のドイツ記録保持者であり (※その後2008年にドイツのイリーナ・ミキテンコがベルリンマラソンで2:19:19のドイツ記録で優勝した)、ニューヨークシティマラソンで優勝した唯一のドイツ人選手である。

90年代、ホーゲンはドイツ出身の他の多くの選手も指導した。のちにジャマイカ国籍を取得したイヴォンヌ・グラハムもその一人である。

ケニア人との繋がり

ホーゲンとケニア人ランナーを繋いだのはキム・マクドナルドであった。彼はトップのケニア人ランナーを、トップのマラソンランナーに育てる事の出来るコーチを探していた。1994年のホーゲンはケニア人ランナー達とトレーニングを開始した。

参加したランナーの中の一人が、サミー・レリーであった。1995年ベルリンマラソンで彼は2:07:02というセンセーショナルな記録を出した。当時は世界で2番目に速い記録であり、過去7年のうちではもっとも速い記録であったのだ。

オンドロ・オソロもホーゲンが指導した選手の一人である。彼は1998年に2:06:54というタイムでシカゴマラソンを走り、マラソンデビューとしては最も速いタイム(2005年当時)で走った選手である。90年代半ばになると既に、ホーゲンはケニア人ランナーがマラソンで2:05:00を切る日が来ると予測していた。

2003年にホーゲンの地元であるベルリンマラソンでポール・テルガトが2:04:55で走り、ホーゲンの予想は合っていたことを証明した(しかし、この二人の間にはなんの関係もない)。2003年の夏にホーゲンは再びケニア人ランナーの指導を開始した。すぐにキンビアのメンバーであるエヴァンス・ルットがシカゴマラソンでポール・コエチに勝ったのである。

2ヶ所のトレーニング拠点

ホーゲンは主に2ヶ所のトレーニングキャンプを交互に使用する。一つはケニア・リフトバレー州のイテン、もう一つはアメリカ・コロラド州のボルダーである。ホーゲンは1990年初めから、ピッピヒとともにボルダーで暮らしてトレーニングをしていた。今でも (2005年当時)二人はともにトレーニングをしている。ボルダーではピッピヒは厳しいトレーニングの間に選手達のサポートなども行っている。

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「ここに来る前に、ボルダーは高地でいいトレーニング環境であると聞いていた。Robert de Castella、Steve Jones、Arturo Barrios、 Rosa MotaやIngrid Kristiansenなどたくさんのいい選手達もここでトレーニングをした。ボルダーは高山気候で年間300日近くは晴れている」

「ケニア人ランナーを指導する時、全く違う素質を持ったランナーを指導していると考えている。彼らはとてもいいコンディションで、いつでも厳しいトレーニングをする準備が出来ている」

アメリカ人やヨーロッパ人選手の可能性についてホーゲンはこう語る。

「きちんとした生活を日々送り、最新のリサーチに基づいたトレーニングを行えば、誰であってもトップにたどり着けるし、将来的にはそれぞれの目標を成し遂げることが出来るだろう」

栄養も大きな役割を果たすだろうとホーゲンは確信している。ピッピヒは大きなロードレースで栄養についてのセミナーを開いている。

「アメリカではこの分野の研究はよく進んでいる。耐久スポーツでは40歳を越えてもトップレベルを維持することが出来る(※例えばバーナード・ラガトのように)が、そのためには健康状態を維持し続ける必要がある」

 

(※ディエター・ホーゲン翻訳記事その2)

 

IAAF記事:DIETER HOGEN – GERMAN COACH, KENYAN MAGIC

https://www.iaaf.org/news/news/dieter-hogen-german-coach-kenyan-magic

 

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